三宅伸治


4年のアルバムは、三宅伸治50歳記念、50曲入り豪華4枚組BOX
そして今、忌野清志郎と三宅伸治の知られざるエピソードを語る


 中学の頃に古井戸のライヴで仲井戸麗市と出会い文通を始める。81年、上京に伴い忌野清志郎の運転手兼付き人に。85年にMOJO CLUBを結成、87年デビュー。MOJO CLUBは5枚のアルバムを発表。並行して88年よりタイマーズでもギターを弾く。03年、忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUEDAY HORNS結成。バンマスとして活躍。06年、三宅伸治BAND(三宅伸治、高橋“Jr.”知治、大島賢治)結成。そして2011年4月、4年ぶりとなるアルバムは、三宅伸治50歳記念、50曲入り豪華4枚組BOXとなった。
  三宅伸治の“現在”が全て凝縮された入魂の最新ベストアルバム! 三宅伸治BAND/カルテットのメンバーに加え、三宅がバンドマスターをつとめたNICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSとの共演など豪華ミュージシャン多数参加。
  今回、誌面の『音楽を続けるということ』とは別に、WEBで完全版インタビューを掲載する。三宅伸治が上京し、RCサクセションに衝撃を受け、忌野清志郎さんに出会った話から、MOJO CLUB、タイマーズ、little screaming revue、清志郎ソロ、NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSの話まで、清志郎さんと三宅さんの知られざるエピソードも多数訊くことができた。二人の強い絆に結ばれた関係性も浮かび上がるテキストとなった。


ライヴを観たいがために、東京の大学に入ったのが実のところ

■遡ってお訊きします。音楽活動を始めるきっかけになったのは?
三宅:
随分、遡りましたね(笑)。始めるきっかけ……親父が割と流行り物好きで、家にスチール・ギターがあったりしたんですよね。それで、エレキ・ギターもあって、なぜかファズやカールコードがあったりして。暇なもんだから、なんとなく遊びで触ってたりしてて。
■それは、いつ頃の話ですか?
三宅:
弾き始めたのは小学校6年でしたけど。親父は演歌しか聴かなかったんですけどね。
■でも、ギターはあったんですね?
三宅:
多分、加山雄三さんとかに憧れて買ってはいたんでしょうね。なので、スチール・ギターがあったんでしょうね。
■地元は九州、宮崎でしたよね。
三宅:
宮崎です。
■中学生の時に古井戸のライヴを観に行って、仲井戸麗市さんと出会って、文通を始めたようですが。
三宅:
古井戸の前座をやったんですけど……記憶が怪しくなってきてるんですけど、前座はやったことあります。宮崎のお祭りがあって、それに古井戸が来るっていうので、でも台風でお祭り自体が飛んじゃったんですよ。急遽、古井戸が小さな喫茶店みたいな所でライヴやったんですけど、急遽だったのでお客さんがいなくて。僕が友達を呼んで、友達ばかりの中で古井戸がライヴやったことがあったんです(笑)。
■凄くレアなライヴですね。
三宅:
そこで「1曲やれよー」なんてことで、1曲演奏したりしました。
■かなり気さくなやり取りですね(笑)。そもそも、RCサクセションを知ったのは、いつ頃ですか?
三宅:
うちの兄貴が四つ上で、その兄貴の影響で。だから小学校6年とかですかね。古井戸とRCは兄貴の影響ですね。憂歌団もそうですけど。
■それぐらいの歳だと、周りで知ってる友達もいなかったんじゃないですか?
三宅:
いないですね。中学の時なんか、1人の友達が憂歌団からブルース好きになって、スリーピー・ジョン・エスティスとか、お互いにレコードを貸し借りしてましたけど。
■そして古井戸もRCも、のめり込むように聴いていった感じですか?
三宅:
そうですね。
■1981年に大学進学のために上京されますが、そして清志郎さんの運転手兼付き人になられるようですが、その経緯を教えてください。
三宅:
当時、もうCHABOさんとは面識があって、文通というかファンレターを返してくれたってことなんですけど、東京に行くと伝えたら、CHABOさんが「RCがエレキになって、今参加してるんだ」って。で、一回観てみようと渋谷の屋根裏に行ったら、ぶったまげたんです。生ギターの時のバンドしか知らなかったので。
■あぁ、それは『RHAPSODY』が出る前ぐらいですか?
三宅:
前ですね。次の年が久保講堂だったんですよ。その久保講堂も観に行って、楽屋にCHABOさん訪ねて行って、当時のRCのマネージャー、坂田さんを紹介してもらって。『RHAPSODY』のアルバムが出て、久保講堂から半年くらい経って、今度は渋谷公会堂の楽屋で清志郎さんに会って。でも、その前に渋谷ジャンジャンで一回会ってるんですけど。仕事っていう話は渋公の時に坂田さんに紹介してもらって。僕は免許取ったばかりで、中古の車を買った頃だったんですけど、清志郎さんに会ったら「なんか、自転車を持ってるらしいねぇ」って言われて。え?ってなって、冗談だったんですけど(笑)、自動車のことを自転車って言いたかったと思うんです(笑)。
■はい、ちょっと冷やかされたような感じですかね。
三宅:
それで年が明けて、正月明けに清志郎さん家に訪ねて行ったんです。その時から始まったんです。
■今のお話を聞いてるだけでも、RCが屋根裏、久保講堂、渋公と登りつめて行った過程を見ていたんですね。
三宅:
凄かったですよ。
■三宅さん自身は、大学進学というのも含めて、音楽をやりたくて上京したっていうのもあるんですか?
三宅:
実はそうなんですけど、「音楽をやりたいから」って上京できる時代じゃなかったんです。なので、一生懸命勉強して大学に入ったんです。それは東京に行くための口実で。大学入ってしまえば、こっちのもんだと。
■(笑)で、真っ先にCHABOさんや清志郎さんに接触を持ったというのは、弟子になるみたいに考えていたんですかね?
三宅:
弟子っていうのは、どうも無さそうな世界だなっていうのは、なんとなくピンと来てたんですね。東京に来たのは、もちろん音楽やりたかったのもあるんですけど、まずライヴが観たいっていうのが大部分なんですよ(笑)。だからライヴを観たいがために、東京の大学に入ったのが実のところで。たまたまCHABOさんと面識あったので楽屋に入れてもらえたり、近くにいれるっていう。で、ライヴも観れるじゃないですか(笑)。
■なんかピュアなファンですね。ほんとに。
三宅:
もう全くそうですね。ピュアっていうか、とにかくライヴが観たくて。
■その時、清志郎さんは運転手を募集してたんですね?
三宅:
だからタイミングが良かったのか、清志郎さんが長期の免停になった頃だったんです。ずっと自分で車を運転して仕事場に来てたんですけど、久保講堂ぐらいから長期の免停になって、“ブン・ブン・ブン”の歌詞になってる。それで、運転する人を捜していたみたいです。
■ほんとリアルですね。
三宅:
おまけに車も動かなくなったんで。それを廃車にしたのも僕なんですけど(笑)。チョーク引っぱったら抜けちゃったんですよ。
■そういう清志郎さんの運転手兼付き人もやられつつ、自分の音楽活動は並行してやってたんですか?
三宅:
バンドはライヴハウスのオーディション受かって、ちょこちょこやったてたんですけど、運転手からローディーになって、ツアーも廻らせてもらって。そんなことを3年ぐらいやった頃にMOJO CLUBを組んだと思う。で、そのスタッフの仕事を一回やめたんです。
■MOJO CLUBを始めてからですね。1985年結成で87年デビューですね。
三宅:
そうですね。一回、やめさせてもらったんですけど、自分の後のスタッフが見つからなくて、次のRCの長いツアーの時に、また僕の名前が入ってたんですよね(一同笑)。まぁ入った人が逃げちゃって、行方不明になって。だからまた戻ってツアーを廻ったり。
■そうなんですね(笑)。RCも全盛期と言える忙しい時期でしょうしね。
三宅:
はい。
■昔、清志郎さんが『笑っていいとも!』のゲストに出ていた時に、三宅さんはアンプを担いで出てましたが、あの髪型はどういうことで?
三宅:
あれは(笑)、前の日に清志郎さんにいて「一緒に出るかぁ」ってことになって、朝まで暇だったんで「普通に出ても面白くないから、髪を切ろう」ってなったんです(笑)。清志郎さんがデザインして切ったんですけど。
■あれはテレビ見ててもギョッとしますよね。その、MOJO CLUBも清志郎さんの後押しがあった感じですか?
三宅:
後押しっていうかは、坂田さんが良くしてくれたんですよ。RCの野音の前座をMOJO CLUBがやらせてもらったことがあって。まだデビュー前ですよ。その時にRCがライヴを録音するっていうので機材を入れてたんですけど、ついでに「MOJOも録ってやるよ」って坂田さんが言ってくれて。それがインディーズのライヴ盤『A-LIVE』です。そのライヴ盤を出した後に、お客さんが集まってくるようになって、メジャーに行くことができたっていう。だから、とても坂田さんの力は大きいですね。
■レールを作ってくれたわけですね。で、1989年にMOJO CLUBが東芝EMIからデビュー。活動としては短かった印象がありますが。
三宅:
東芝で3枚アルバムを出したんですけど、当時は短い間にポンポンと出してって。ライヴは学園祭とかで演って。なにせ、バブルでしたからね。
■バンドブームもちょうどその頃ですかね。
三宅:
だからバブルがハジけたぐらいに、3枚のアルバムを出したんですよね。
■あー、90〜91年頃ですね。その後の活動としては?
三宅:
その後に、キティっていう事務所が無くなっちゃったんですよ。それでレコード会社の契約も無くなって、バンドはあったんで自分らでなんとかやり始めて、そこから2年ぐらいして、レコード会社もメルダックに移って、そこから2枚出しました。色んなことあったんです(笑)。
■その間にタイマーズもやってますよね。
三宅:
だから清志郎さんの後押しっていうのは、そのタイマーズだったんですよね。MOJOのデビューの頃に、ちょうどタイマーズもやってて。だからタイマーズのメンバーは俺とドラムがMOJOで、ベースがヒルビリー・バップスで、その2バンドとも事務所がキティだったんで。学園祭なんかでは、タイマーズ含め3バンドでよくやってました。僕なんか二つ出てて。だから学園祭の昼と夜があったら、1日で4ステージやんなきゃいけなかった(笑)。
■結構、苛酷ですね(笑)。
三宅:
しかも人格変わんなきゃいけないんで(笑)。MOJOと別なテンションなので。
■そうですね。当時、タイマーズは手段が画期的でしたからね。RCの『COVERS』の後に。
三宅:
『COVERS』出して、結局、RCではライヴは演ってなくて。もうそこからタイマーズなんですよ。『COVERS』出した年の、夏のピース・コンサートなんかは、タイマーズで“ラブ・ミー・テンダー”や“サマータイム・ブルース”を演ってます。
■そうなんですね。それらの曲は今、聴き返しても、凄く通用するロックですね。
三宅:
そうですね。88年か…。
■タイマーズもある程度活動して、その後、清志郎さんは色んな活動をされるので、1年の間に色んなことをやってますが、三宅さんはScreaming Revueで一緒にやるようになって。
三宅:
あまり覚えてないんですけど、第一期のタイマーズが終わった後に、僕はMOJOに戻って、清志郎さんは2・3'Sをやったんですね。
■その前にHISをやったり、メンフィス行って『Memphis』も出してますね。
三宅:
そうですね。
■その後、2・3'Sで若いメンバーとバンドを楽しんでたのが、限界を感じて、三宅さんと一緒に清志郎さんの王道をやるみたいな感じですかね?
三宅:
そうですね。で、Screaming Revueをやったんですかね。


みんな聴きたいだろうなって。清志郎さんが歌うガツンとしたロックを

■清志郎さんと一緒に曲を書くようになったのは?
三宅:
2・3'Sの前ぐらいから。最初に作ったのは、今回の『夢の歌』にも入ってる“プライベート”って曲なんですけど。
■この曲は2・3'Sのシングルで、2ndアルバムに入ってますね。
三宅:
実はその前にJohnny Louis & Charと清志郎さんで、アニメの『県立地球防衛軍』で作ったんですよ。それはもうMOJOもデビューする前なので、86年ぐらいだと思います。
■そんな前からあった曲なんですね。清志郎さんと一緒に曲を作ろうってなった時、どういう気持ちでした?
三宅:
いや、まぁ僕にとっては夢じゃないですか。でも“プライベート”に関しては、まさに歌詞のように、〆切間近っていう状況でした。
■では、どっしり構えて作ったのは、どの辺りから?
三宅:
『君にだけわかる言葉』(95年)とか、東芝の一連のシングル盤で。Screaming Revueの時ですけど。その時にナッシュビルに行って、共同プロデュースって形でやらせてもらったんですよね。そのデモテープも東京で2人で録音して。
■『世界中の人に自慢したいよ』とかもそうですよね。
三宅:
あの辺もそうです。デモテープ作る時も、僕はベース弾いたり、色んな楽器を2人で演ったんですが。向こうでは一流プレイヤーが、それを聴きながら演奏するっていう。やめてくれって言ったんですけど(笑)。楽しかったです。
■いきなり海外録音だったんですね。
三宅:
そうですね。まぁタイマーズの時も海外で一緒にやってましたし。
■時代性もありますしね。で、96年のLittle Screaming Revueからガッツリ一緒にやられている印象がありますが。
三宅:
Little Screaming RevueはScreaming Revueからツアーがいっぱいできるように、小編成にしてやったんですけど、その頃から『FIJI ROCK FESTIVAL』とかも出たりしてて。だから新曲を作ってアルバムを出しながら、イベントとかにも出ていくんで、1曲目から“雨あがりの夜空に”を演っちゃったりとか、そういう時代になってきたんです。なんか、その辺はずっと避けてたという感じがあったんですけど。
■RCの曲を演ることをですね。それは三宅さんが「演りましょう」と言ったんですか?
三宅:
そうですね。
■それに対して、清志郎さんはなんて言いました?
三宅:
「いいんじゃない」って(一同笑)。
■結構、フットワーク軽いですね。じゃあ、三宅さんはRCの曲を一緒に演りたいとずっと思ってたんですね。
三宅:
演りたいというか、ファンの人が聴きたいだろうなと思ってたんです。清志郎さんとは、ずっと一緒にやらせてもらいましたけど、やっぱり最初にファンで「ライヴが観たい」っていうのがあって、そこからずっと同じだったんですよね。
■あ、ブレてないですね(一同笑)。それ、凄いですね。
三宅:
多分、みんな聴きたいだろうなって。清志郎さんが歌うガツンとしたロックを。
■あくまでファン目線ですね。
三宅:
でも、それが一番、一緒にやれた要因だと思います。清志郎さんに……認めてもらってたのは、そういうところが大きいかもしれないです。
■誰かが言うべきことだったのかもしれないですね。
三宅:
うーん、でも清志郎さんって凄く頑固なので。頑固っていうか、自分の思ったことを貫く人じゃないですか。だから、清志郎さんは自分の思ってることを、あまり変えようとは思わなかったんですよね。でも、僕も割とそういう人間なので(笑)。それと10個も年下なので、貫くところを譲ってくれたんだと思いますよ。だから「ちょっと、やってみようか」って事になったんだと思います。
■多分、三宅さんじゃないとやらなかった気がします。
三宅:
いや、それは分からないですけど……清志郎さんの色んな時代や色んな事、色んな曲をこんな形でとか知ってる上で言ってるのを、分かってくれてるので、だから「やってみようか」って事になると思う。やってみたら「割と面白かったな」ってなるし。RCとは違う感じでRCの曲ができるなと思ってくれたと、思うし。そんな話、清志郎さんとまともにしたことないですけど、「もう、あれやめようよ」って言わなかったので(笑)。本人も面白かった、と思ってくれていたのかなと。
■しっくりきてたんですかね。アルバム『Groovin'Time』を出した頃の野音のライヴや、98年のフジロックを僕も観てたんですけど、RCの曲を演った時は「あ、やるんだ!」って確かに驚きましたね。
三宅:
Screamingの時に“雨あがり”を一回、カントリーで演ったことありましたからね(笑)。それはなんか変わった感じで演ろうかって。
■そして、『冬の十字架』が99年にリリースで、同じ頃、清志郎さんはラフィータフィーも始めて、その後、LOVE JETSもあって、ほんと色んな事やるなぁと。三宅さんがまた一緒にやるのは、次はソロ名義ですかね。
三宅:
まぁ(忌野・泉谷・)スパイスマーケットっていうのもあったんですけど、また一緒に『KING』というアルバムを作って、その後『GOD』を。
■2003年以降ですね。このNICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSは、その時に組んだバンドですかね?
三宅:
そうです。『KING』の録音はほとんど2人で演ってるんですけどね。ドラムが清志郎さん、僕がベース弾いたりとか。そういう感じで曲作りから、スタジオに入ったんです。そのアルバムを出してツアーをやろうって時に、メンバー固めてNICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSって名前で。レコーディングの時にホーン・セクションが入ったんですけど、僕が「ソウルをやりましょうよ」って、それも僕のわがままを貫いたんですけど(笑)。
■“Baby何もかも”とかですね。
三宅:
その前にブルーノートで、ブルースブラザーズのバンドに清志郎さんがゲストで出たライヴがあったんですけど、そのビデオを観て「やっぱり、こういう編成で歌う清志郎さんは最高だな」と思ったんです。RCも一時期、ホーン・セクションが入って演ってたんですけど、それがずっとなかったので「こういうバンド、もう一回やりましょうよ」って話になって、「いいかもな」って。で、やっぱりサックスは梅津和時、片山広明だろってなり、だんだんメンバーが決まっていったんですよね。
■『KING』も出た時は、ちょっとした驚きでしたよ。音もジャケットも含め、清志郎さんそのものっていう感じがしたんですよね。それも三宅さんが提案した部分もあったと。
三宅:
いや、そういうのは別に強調しなくていいんですけど(苦笑)。お互いに「もう一回、ソウルを演ろう」とか、作戦を練ってやりましたからね。そりゃ、色んな時代を経てますからね。
■はい。やっぱりファンの方もそういうのを聴きたかったと思うんですよ。やっぱり『KING』以降のライヴが素晴らしいんですよね。その前のラフィータフィーとかも好きなんですけど、清志郎さんの王道ではなかったというか……ちょっと語弊がありますが。
三宅:
でも、その時代毎で、清志郎さんのやりたい事をずっとやってきたんで、全部ライヴ観たり、アルバム聴いてると分かりますよね。「今はここにハマってるんだ」っていうのが。とにかく一個思ったら、ガーッ!てやる人なので。
■そういう清志郎さんも好きなんですけどね。それでも『KING』以降のライヴを観てて思ったのは、やっぱり三宅さんがいないと、こうはならなかったんだろうなと思いましたけどね。
三宅:
始まりがファン目線ですからね(笑)。うん、ファンで良かったと思いますよ。
■そういうことが、今回のBOXに入ってる曲にも表れていて。
三宅:
やっと、この話になりましたね(一同笑)。


「朝から夢の歌作ってる」っていうのを、清志郎さんに褒められて

■今回、網羅された50曲を見て、清志郎さんと三宅さんの共作って結構多いなっていう。あまり共作だと意識しないで聴いてた清志郎さんのファンもいると思うんですよ。それが、実は共作でしたよっていうのも分かりますし。
三宅:
結構、共作の曲はあって。……一昨年の年末に、自分の中で、なんか吐き出さなきゃっていうのがあって。共作の曲だけでライヴを演ろうっていうのを1日演ったんですよ。その時、共作の曲は何曲ぐらいあるのかなと思って、発表してるアルバムから調べたら、60数曲あって。発表してないのも合わせたら100曲近くあるんだろうなっていうのが分かって。それは自分としては大事にしなくちゃいけない宝じゃないですか。それを改めて思って。その中から1人で演れそうな曲を演ってみたんですよね。
■今回のライヴ・テイクの20曲ほどですね。その時のライヴから厳選されたと。
三宅:
でも、ほとんど入ってると思います。
■今回4枚組で、1枚毎にカラーで分けてますが、前からこういう色分けみたいなのを描いてたんですか?
三宅:
1、2、3、4ってしちゃうと、どうしても数字として考えて、なんか違うかもしれないと思って。特にライヴの2枚は一緒なので。じゃあ、色分けでやるとクレジットとかも分かりやすいと思って。例えば「White」ってなってる盤は、ストリングスが入ってたり、割と生ギターとかの感じの曲が並んでて。「Black」はロックンロールなのが並んでて。ライヴを「Orange」と「Pink」にしたのは、清志郎さんが最初に乗ってた自転車はその後、僕が借りて乗ってたんですけど、それがピンクなんですよ。それで清志郎さんと色んな所に行ったりしたんですけど。で、清志郎さんはオレンジの自転車で。
■あ、あの有名な自転車ですね。
三宅:
なので、「Orange」と「Pink」にしました。
■だから「Orange」の1曲目に“サイクリングブルース”が入ってると。このインスト曲が、ライヴ音源の前に入ってるのが謎だったんですよね。
三宅:
それは、たまたまインストで録音した曲なんですけど、発表してなかった曲なので。そのライヴのSEで使ったんですよ。
■じゃあもう、ほんとライヴと同じ流れなんですね。1枚目の最後の“春”って曲は、7年前に清志郎さんと長野で作ってた時にできたという曲らしいですね。
三宅:
アルバム『KING』のツアーが終わって、2人で長野の僕の知り合いのスタジオにレコーディングに行ったんですよ。温泉に入りながらダラダラやってたんですけど、ここにも入ってる“Remember you”とか何曲か作ったんですけど、その時に“春”を1人で作ったんです。そしたら「朝から夢の歌作ってる」っていうのを、清志郎さんに褒められて、なんかそれをずっと覚えてたんです。
■はい。それを「White」という盤の最後に入れたかったと。
三宅:
なんか、希望が持てる感じがしたんですよね。このアルバム自体、そういうアルバムにしたかったので。
■あと、「Pink」の最後の曲“ボスのSOUL”が凄いですね。ストレートな歌で胸を打たれました。これは完全に新曲ですか?
三宅:
そうですね。清志郎さんがいなくなってから、NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNSと何回かライヴを演ったんですけど、僕が歌うわけですから、今の気持ちで曲を作りたいなと思って。しかも、僕しかできないような清志郎さんに対しての曲を作りたいと思って、それで“ボスのSOUL”って思いっ切りストレートですけど。ボスって言うのも、みんな一般的じゃないですから、個人的な歌なんですけど。ただ、それはどうしても作りたいなと思って。
■はい。三宅さんは昔から一貫してボスって呼んでますもんね。
三宅:
そうですね(笑)。それは清志郎さん本人から「呼び名はボスにしよっか」って約束事になってて。最初に運転手したその日に、車の中で言われたんです。渋谷の東映前辺りで(笑)。
■じゃあ、その約束をずっと守ってるわけですね。
三宅:
ええ(笑)、でも僕が言ってる内に色んな人が言い始めましたよ。
■逆にファンの間では、ボスって言い方も多いと思いますよ。
三宅:
逆に僕は「キヨシロー!」って言えないですよね。昔、ファンの時も性格的にキヨシロー!って言うタイプじゃなかったんで。
■なんとなく分かります
三宅:
だから、キヨシロー!って言えるような関係の方が、あまり寂しくなかったかもしれないとは思ったりしますけどね。今もボスとしか言いようがないっていうか……とても寂しいですね。
■やっぱり、ボスって呼ぶ人だと三宅さんが浮かびますからね。他の人だとイメージできないというか。なので、この“ボスのSOUL”が最後にグッときました。――4枚ぎっしり入ってて、聴き応え凄くあります。実際、このBOXを出せたことの達成感としては?
三宅:
凄く嬉しいです。自分のBOXを作るっていうことが、ひとつの夢だったので。僕が洋楽とかで好きな人は、みんなBOXを持ってるので。自分のは、50歳で50曲っていうのはたまたまそうなったんですけど。共作の曲は違いますけど、新曲ばっかりでBOXを出せるっていうのは、普通はあまり無いので、凄く嬉しいです。
■そう言われると、内容的にはちょっと特殊なBOXですね。アニバーサリーというより現在進行形な感じというか。
三宅:
はい。とにかくこれを出さないと、先に進めないような気がしたんです。だからもう出したから、ガンガン行けますけど(笑)。自分の中で、色んなものをいっぱい背負ってた気がして。それをもう一つにしてドーンと、聴いてもらいたかったんですよね。
■清志郎さんへの感謝も込めて、それも含めて出したかったのもあったと。
三宅:
そうですね。
■『夢の歌』っていうタイトルに込められた想いとしては?
三宅:
さっきも出た“春”って曲で「夢の歌を作ってる」っていうボスとの会話の中で、覚えてた言葉なんですけど。……歌自体が色んなことを考えたり、色んな夢に繋がるような気がしたんですよね。元々、最初に歌を作る時って、自分を表現したいとか彼女や友達に聴かせたりとかから始まるんですけど、色んなことが夢に繋がるかもしれない。誰かが元気がなかったら元気を出してあげることができたりとか、それって、色んな夢っていうことにも繋がるし、自分の中の空想の夢でもあるし、これからの希望っていうかも思って、そのタイトルにしました。
■それは清志郎さんが言う夢と通ずる部分もありますね。では、今後の活動ですけど、今は三宅伸治BANDがメインですかね?
三宅:
そうですね。実質、弾き語りのソロの方が数的には多いですけど、三宅伸治BANDで3人で演ったり、NICE MIDDLEも時々演りますし。
■ビーフ・ジャンキーズも去年から活動されてますね。口蹄疫被害へのチャリティー・バンドという。
三宅:
はい、それもやっていきますし、あとは誰かとセッションしたりも。
■最後に三宅さんにとって、音楽を続けるということは?
三宅:
うーん、他に何も無いっていうのが正直な意見(笑)。他に何もできないっていうか。
■それは、やっぱり好きだったからじゃないですか?
三宅:
そうですね。活動的に言うと1年間の活動って、ほぼライヴなんですよね。なので、お客さんに随分力をもらってるのは大きいですね。だから、また次がやれるというのはあります。ライヴやらないとダメだなと思いますよ。
■とにかくライヴに来てほしいってことですかね?
三宅:
そうですね(笑)。うん、ずっとやってるんで、来れる時に来てくれれば。

Interview&Text : 田代 洋一

 

liveinfo

【三宅伸治BAND】
5/1(日) 吉祥寺 ROCK JOINT GB
5/4(水) 神戸 WTNTER LAND

5/5(木) 大阪 服部緑地野外音楽堂 
「祝春一番2011〜40周年記念〜」

5/7(土) 名古屋 APOLLO THEATER
5/8(日) 三重・松阪 M'AXA

【三宅伸治ソロ】
5/14(土) 長野・飯山 ZION

5/15(日) 埼玉・入間 SO-SO
三宅伸治「3・8/50th HAPPY BIRTHDAY LIVE “夢の歌”」特別企画“前夜祭&後夜祭”

5/20(金) 大阪・十三 CLUB WATER
5/21(土) 和歌山 OLD TIME
5/22(日) 和歌山・田辺 ORAN-CHI

5/28(土) 沖縄・宮古島 川満漁港グラウンド特設ステージ 
「美ぎ島ミュージックコンベンションin宮古島2011」

【三宅伸治BAND】
6/4(土) 新潟・糸魚川 みんみん2


詳細は http://www.miyake-shinji.tv/ にて

releaseinfo
『夢の歌』
Now On Sale
PHOENIX RECORDS
CD4枚組、50曲入り 
※DVDサイズデジパック仕様
¥5,985(税込)


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